当神社は、元多田院とも、亦多田大権現社とも称えて、関西日光の称ある大社である。
御祭神は、第五十六代清和天皇の御曽孫贈正一位鎮守府将軍源満仲公を首め、頼光、頼信、頼義、義家の五公を奉斎する所謂、源氏の祖廟であり、源家発祥の地である。
五公が国家の藩屏として尽くされたる偉勲功績は、我が国史上燦として輝き、縷述を要しないが、満仲公が武門の棟梁たる勅諚を賜り、国家鎮護の大任を、果たされたるのみならず、或いは、沼地を開拓して多くの田畑を造り、或いは、河川を改修して港湾を築き、或いは、鉱山事業等殖産興業に力を注ぎ、国力の増進と源家興隆の基礎を築かれ、又頼光公の鬼賊退治頼信公が平忠常を伐ちて、関東を平定し頼義、義家の二公が前九年、後三年の両役に自ら大軍を率いて辺陲に赴き、奥羽の豪族を誅滅せられたる等、萬民等しく畏敬欽仰する処である。
依って当神社は古来武軍長久の勅願社として、且又家運隆昌、勝運厄除の守護神として、崇敬せられている大社である。
現在の社殿神廟は、徳川四代将軍家綱公の再建に係るもので、境内は二丁四面に、内廓と外廓との二重になって、外廓南門に楼門(県指定)、東西に高麗形の大門(県指定)があり、それに社務所、授与所、宝物殿、儀式殿、斎館、休憩所等がある。
また内廓には、神廟、御本殿(国指定)、拝殿(国指定)、随神門(国指定)、神輿庫、宝蔵庫、神馬舎があり、尚別当門、坊址門等があって、頗る雄大荘厳な神社である。
平成31年3月に国登録有形文化財に指定を受けた宝物殿は、江戸期に木造建築であったものを昭和4年に高さ約1mの基礎の上に当時珍しい鉄筋コンクリート造平屋建、一文字銅葺きの切妻屋根を架す構造物に再建され、収蔵部の柱梁は木造で伝統的な社寺建築を基本とし展示ケースは当時のまま使用されている。 国指定重要文化財の多田神社文書を始め、源家宝刀として伝わる鬼切丸、御神影図、甲冑、書画等ゆかりの宝物を所蔵している。
境内は静寂にして、楼門階下の猪名川の清流奇岩の間を早瀬が、水泡を飛ばし、又後方鷹尾山を控えた、高地であるから、眺望絶佳、老杉、古松、楓桜相交わり、殊に日本一と称せられる「唐椿」(キャプテンロー)を始め招霊(おがたま)・無患子(むくろじ)共に県郷土記念物等珍しい樹木がうっ蒼として繁茂し四季共に清遊にも適する、清浄の霊地である。
かかる観点より文部科学省に於いては、我国史上重要なる地域であるとして、文化財保護法により史蹟に指定せられているのである。
御由緒
多田院のおこり
主祭神源満仲公、天禄元年(970)当時、攝津守であった公が一の宮住吉明神(現在の住吉大社)に参籠、御神託を蒙り此の地を開拓、源氏の居城となし(本朝、城の初まり)円融天皇より此の城をもって禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべしとの勅諚を賜ったとある。
そして公75歳の御時勅許を得て仏門に入り一寺を創設して公24歳の自影を安置して国家守護武運長久の霊場となして、多田院と号した。
長徳3年(997)満仲公薨去の後その廟所の造営と満仲像を祀る御影堂が中心となって多くの寺坊が建立された。
多田院は別称を鷹尾山法華三昧寺と呼んだが、宗派は開創当時は天台宗(満仲公末子源賢僧都延暦寺修行)から後年西大寺忍性の再建以来真言律宗に転じた。
鎌倉・室町幕府と多田院
当社所蔵の古文書のうち、貞応2年(1223)9月24日付の北条泰時の書状によれば、泰時が多田院に対し代官使の入部を停止させていることがわかる。
以来鎌倉幕府は、多田院を重要視しており、文永10年(1273)4月にいたっては、多田院造営を督励し、時に造営奉行として僧良観(忍性)にあたらせた。
ついで正応6年(1293)正月19日には、官宣旨により攝津国内に棟別銭十文宛を課して多田院修造の料にあてさせている。このように鎌倉時代を通じては、多田院は、幕府の保護のもとに発展隆昌をとげていった。
正和5年(1316)10月13日におこなわれた多田院堂供養の御家人警固座図によって当時の多田院の盛大さを偲ぶことが出来る。
即ち当時の導師は西大寺長老浄覚であり、講師は八幡大乗院長老道禅であった。他に南都西大寺から僧衆80余名が出勤してきている。
その境内の規模は満仲、頼光両公の御廟とその拝殿、そして金堂とその周囲には経堂・塔・法華堂・常行堂・鐘楼があり、中門を通しては学問所・東坊・長老坊などがある。
その警固にあたった多田御家人については、渡辺・西村・塩河・黒法師・吉河・山問・能勢等50数名の面々が綺羅星の如く、名を連ねている。
当社縁起によれば、足利尊氏は建武3年(1336)3月2日の九州多々良浜の合戦以前に多田の由緒を伝え聞いて多田院を崇敬したと伝えている。事実現存古文書のうちに、建武3年3月25日付尊氏戦捷祈願の御教書がある。ついで建武4年(1337)7月25日には、尊氏は攝津善源寺東方地頭職を寄進している。そして延文3年(1358)4月30日尊氏が没すると、同6月29日付で義詮は父尊氏の遺骨を多田院に納めている。以来多田院と足利家の関係は益々密となり、歴代将軍の没後は必ず尊氏に倣っている。
多田院と多田御家人
ところで多田御家人というのは公家または武家の臣ということであるから、多田御家人とは多田庄の武士で祖神満仲公を中心として結束した一群の武士団から出発した名称である。このことから多田神社成立の特殊事情を汲みとり、その武士団の発展過程がわが国の武家社会に於いて占める位置を検討することは重要なことである。
現在古文書のうちにも御家人の寄進状が多くある。御家人は寄進することによって天下の安泰と家門の繁栄を祈ったことがわかる。また建治3年(1276)正月には、御家人が多田院の造営を計画し、弘安4年(1281)8月の多田院御家人請文三箇条では、源家の末孫として平日は多田庄の開発につとめ、火急の折には祖先の武功にならって氏族の存亡をかけて武器をとって立った。
これらの多田御家人衆の団結力は多田荘70数ヶ村の繁栄にいたらせる動機ともなっていた。それらの力の背景としてあった多田院という寺、ならびに後世神社としての神廟は祖先崇拝としての、地方文化のよりどころとなっていたのである。
延享2年(1745)の御家人由来伝記によれば天正5年織田信澄の手によって焼失した。しかしながら徳川四代将軍家綱は社勢衰徴を憂ひ、寛文5年(1665)社領五百石を附し、朱印地となし、同7年には再興の社殿が落成した。そして、元禄8年(1695)社殿の修復を経て今日に至っているのである。その結構荘厳雄偉は西日光と称せられ関西屈指の大社である。
史跡・文化財
以上の通り、当社は清和源氏の祖廟であり、源家発祥の地であるが故に、その神域一帯(1万6千坪)は昭和36年6月国の史跡に指定せられ、境内地下には旧多田院時代の伽藍遺構が残ると共に、入母屋造りの本殿・拝殿と切妻造りの隨神門(3つの棟からなっており三棟造りともいう)は昭和41年6月国の重要文化財としての指定を受けている。其他の建造物、南大門・東西の高麗門・六所宮・厳島神社等は、兵庫県の重要文化財の指定を受けている。
平成31年3月に国登録有形文化財に指定を受けた宝物殿には、源満仲公24歳当時の馬上の図を始め、源家宝刀鬼切丸・甲冑・書画・多田神社文書等源家ゆかりの宝物を数多く所蔵している。
多田神社に関わる伝説・伝承
九頭竜伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公が新しい館をどこに築こうか思い悩み、当時摂津守であったので、同国一の宮の住吉大社に参籠しました。
参籠して二十七日目、『北に向って矢を射よ。その矢の落ちる所を居城とせよ』との神託を受けて、満仲公は鏑矢を放ちました。
家来を引き連れた満仲公は、放った矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来ました。
(この場所は、「矢を問うたところ」として、『矢問』という地名で残っています)
満仲公が老人に教えられた場所に行ってみると、大きな沼があり、九つの頭をもった二匹の大蛇(九頭竜)がおり、その一匹の大蛇の目に満仲公が射た矢が刺さり、暴れまわっていました。
死に物狂いの大蛇は、苦しそうに堰を切って沼から逃げ出しました。
しかし、ついに力尽きて命を落としました。
(現在でも、九頭竜が死んだ場所として『九頭死(くずし)』という地名が残っており、東多田という所に「九頭竜大明神」として祀られています) もう一匹の九頭竜は下流の方に逃げ、命を落としました。(小戸神社境内に「白竜社」として祀られています)
大蛇と共に流れ出した水の後には、よく肥えた土地が残り、いつしか多くの田が出来た事により、『多田』という地名がつけられました。
美女丸伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公は戦などで血筋が途絶えないように御子の美女丸を僧侶にしようと考え、修行をさせるかたわら和歌や管弦等を習わせる為に中山寺に預けました。
しかし、これを不満に思った美女丸はそれを聞き入れようとせず、武芸の真似事をして我儘な毎日を過していました。
時が流れ、満仲公は十五歳になった美女丸を呼び寄せ、修行の成果を尋ねました。しかしこの時美女丸は、和歌や管弦はもとより経文も読む事が出来ませんでした。
これを知った満仲公は、烈火の如く怒り、重臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるように申し付けました。
しかし、主君の御子の命を奪う事が出来ず、困り果てていたところ仲光の実子の幸寿丸は、「私が美女丸様の身代わりになります」と、申し出ました。
仲光は、止めどなく流れる涙を堪えて、幸寿丸の首を打ち、美女丸を密かに逃したのです。
後にそのことを知った美女丸は、今までの自分の行いを悔い改めて比叡山で修行に励みました。
やがて美女丸は、源賢阿闍梨という高僧になりました。
大江山鬼退治伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公の御子に頼光公というたいへん武勇に優れた人がおりました。
丹波国の大江山の方で夜毎、鬼が現れて悪さをするので何とかして欲しい、という願いが都に届き、調べてみると大江山に鬼が城を築き、財宝を奪い、人々を連れ去るなどと悪行を重ね、人々を大変悩ませていたのです。
この鬼は大酒飲みで、髪に櫛を入れないで子供のような頭をしていたことから、『酒呑童子』と人々は呼んでいました。
これを退治するように天皇から命を受けた頼光公は、家来であり「四天王」とも呼ばれていた渡辺綱・ト部季武・碓井貞光・坂田金時らを引き連れ、山伏の姿に変えて、大江山へと向かいました。途中猪名川町にある東光寺で必勝祈願をしたと伝えられています。
大江山に着いた一行は、酒呑童子に近づき、酒に酔ったところを源家の宝刀鬼切丸でその首を切り、めでたく凱旋しました。多田神社の境内にある池は、このとき鬼の首を洗った池だと伝えられています。
多田院 鳴動
都から離れ、多田という土地において中世の先駆けともなる武士団を形成し、晩年には敬謙な信仰生活を営んだ源満仲公は、今からおよそ一千年前に亡くなりました。
死に臨んで満仲公は、
「吾没後神を此の地に留め弓箭(ゆみや)の家を護るべし、加之当院の鳴動を以て四海の安危を知るべし。」
つまり『自分は亡くなった後も、多田院の霊廟にて、我々源氏一門を護ろう。それだけでなく鳴動をもって国内の安全か危険かを知らせよう』と遺言したと伝えられています。
鳴動とは、音を発して揺れ動く事であり、事変の急を天下に予告したといわれています。
鳴動があると多田院は、直ちに幕府に報告しました。
鳴動は、全国にわたり事例があるが、多田院鳴動は佳例(めでたい先例)と伝えられています。
多田満仲公年譜
醍醐天皇 | 延喜12年 1才 | 母、藤原敦有の女、父は源経基公なり、母夢に不動明王の利剣を呑むと見て懐妊13ヶ月にて 4月10日京都にて誕生幼名を明王丸と呼ぶ。 |
延長元年 12才 | 八幡大菩薩と夢に和歌の応酬あり、多田乃宇留於宇水屋草濃雨人中君濃御世葉万才明王丸の返歌に曰く。 水草濃雨乃恵濃布加幾由江人葉中々君伊於宇春 | |
延長4年 15才 | 元服して左馬亮満仲と呼ぶ。 | |
延長6年 17才 | 満仲弓矢馬術に達人となる。 | |
朱雀天皇 | 承平4年 24才 | 父経基、源姓を賜り平将門叛乱討伐に同行す。 此の時の自像を晩年自ら彫刻現在多田神社に御神躰として崇められる。 |
天慶2年 29才 | 経基公と共に西海に叛乱せる藤原純友の討伐に向ひて軍功あり。 | |
天慶3年 30才 | 平将門の乱平らぐ。 | |
天慶4年 31才 | 藤原純友の乱平らぐ。 | |
村上天皇 | 天暦4年 38才 | 長男満正生る。 |
天暦7年 41才 | 次男源頼光生る。 | |
天徳元年 46才 | 嵯峨野行幸雲上に朔る雁を射落し御感あり、村上天皇より弓矢の達人として賞讃さる。 | |
応和元年 50才 | 武門の棟梁とすとの勅諚を賜ふ。 | |
康保2年 54才 | 戸隠山に鬼神住みて牛馬六畜を殺生すとて勅命を受けて之を退治す、 鬼人の首を携へ帰って叡覧に供し其功により正四位下を賜る。 | |
康保5年 57才 | 藤原仲光以下千人の供を従へて住吉神社に27日間参籠紺紙金泥の写経、 黄金作りの太刀一振上箭二筋神馬三匹其の他多大の寄進あり、此の時神前にて和歌一首。 松蔭の波に浮べる月までも深きや頼む住吉の神神箭と神託により沼沢地を開拓し新田城を造る。 此処に九頭の大蛇を射殺し湖水乾涸多田荘72邑となる。 | |
冷泉天皇 | 安和2年 58才 | 源高明の叛逆を未然に鎮圧せる功により鎮守府将軍左馬頭となる。 源高明の庶子清原明忠復讐暗殺を企てしも満仲公の威厳と渡辺綱の武勇によりて果さず、 更に其の年11月20日には公卿某を語らひて奸策を講じて讒訴す。 即日処刑の計ならず源俊朝臣に御預けの身となる。頼光急変を聞いて鎌倉より西下途上病に臥し妾照日の上、 父平吉秀に欺むかれ搦め取られる照日の上驚き悲しみ自刃して頼光に己れの潔白を示す。 しかも此の危急の際互に和歌を応酬せる挿話あり。 頼光、卜部季武に救はれ又足柄峠にて坂田金時、碓井貞光、渡辺綱等に守られ京都に入る時 既に清原明忠の謀略罪科露見して遠島の流刑となり満仲公は勅勘を宥され帝都守護の重任変りなく 世に智仁勇兼備の忠臣として賞讃の的となる。 |
円融天皇 | 天禄元年 59才 | 満仲公心機一転して無常観より顕職を辞し、頼光大門の守護職となる。 満仲公多田に退隠、出家の御暇を奏請せしも許されず、これがため四男美女丸を出家せしむ。 |
天禄2年 60才 | 多田銀山を採鉱す。 | |
天延元年 62才 | 満仲公変装(身を貧賤に)して下情を視察し貧民鰥寡孤独を救恤し金銭、米帛を与へて仁政を施す、 満仲公の和歌勅選せられて拾遺抄に入る。清原元輔送別の一首なり君はよし行末遠くとまる身の まつほど如何あらんとすらん兵庫に新宅を造る。多田銀山より家臣二人銀箔を持参す。 | |
天延2年 63才 | 頼信生る。母は大納言元方の女也。 | |
元貞元年 65才 | 慧心僧都より法号「満慶」を受く満仲分57才の頃より仏教信仰最も篤く、 日課に法華経を誦し名号二万遍を唱ふと曰ふ。 | |
天元3年 70才 | 多田院建立、落慶式壮厳豪華を極め阿弥陀堂、釈迦堂、不動堂、僧堂、庫裡、鐘楼万丈廊下山門総門尽く成る。 釈迦堂に満仲作、釈迦立像。頼光作、文珠菩薩。頼親作、普賢菩薩あり。 又、頼信作の四天王(増長天、広目天、多聞天、持国天)を安置す。 | |
花山天皇 | 寛和2年 76才 | 6月23日花山天皇元慶寺へ密に御脱出さるるを宮中より守護奉る。 8月15日満仲公受戒剃髪、翌日奥方も剃髪せられ仏如尼公と云ふ。 8月16日老臣近習12人一時に髪を切る、奥方近侍の女房達も一同髪を切って御弟子となる、 8月17日満仲法華三昧院に移り給ふ。花山法皇多田院に臨幸、旬日御滞在あり御法名の一字を贈りて覚信と称す。 |
一条天皇 | 永延元年 77才 | 藤原兼家新邸を京極に営み、盛宴を張る、 満仲頼光公に命じて馬30頭を索かせて客に頒たしむ藤原氏との友情亦かく親密なりき。 |
正暦元年 80才 | 平将門の子能門多田城を攻めて成らず、怖れて退却し兵庫にて頼光の追討に仆る。 | |
長徳3年 86才 | 源家末孫、四海の貴賎を擁護す、源家の安危は当院の盛衰によるべし、 又曰く吾没後神を此の地に留め弓箭の家を護るべし、 加之当院の鳴動を以て四海の安危を知るべしと宣ひて丁酉歳8月27日無病端身正念合掌して薨去せられる。 此の時天楽空に響き異香四方に薫ぜりと伝ふ。 | |
後土御門天皇 | 文明4年 | 足利義政の時勅により従二位を賜ふ。 |
東山天皇 | 元禄9年 | 徳川綱吉の時贈正一位多田大権現の神号を賜ふ。 |